『ジョーカー』とは

ヴェネツィア国際映画祭の最優秀賞である、金獅子賞を受賞し、全世界で問題となっている『ジョーカー』。映画館で鑑賞後、さまざまなレビューや考察を読み、自分の中に落とし込んでいく中で、自分でもこの映画について、何かを語っていた方がいいだろうと思った。いまさら全く新しい視点を提示できるとは思えないし、むしろ、これは私の視点で「みんなが言っていること」をまとめた程度に過ぎないものだろう。けれども、やはりこの作品は考えるべき点が多くて、それに対してきちんと自分の言葉で答えを持っておくべきだと思った。

 1.どんな映画か

ひとことで言うなら「現代の社会問題詰め合わせバーゲンセール」である。主人公・アーサー(ジョーカー)が見舞われる事件は、今の貧困層が抱える問題で、ひとつひとつ取り上げると大きい問題ではない。ただ、これはひとつひとつ「取り上げる」からこそ「大きくない」のだ。アーサーの目の前には、ひとつの問題が起こったあと、解決の兆しも見えないまま次の問題が起こっていく。

劣悪な労働環境、同僚の唆し、失業、母親の介護、福祉サービスの廃止、貧困、虐待・ネグレクト、精神障害、幻想だった恋人、養子の自分、否定された夢。

ここから貧困を取り上げてみよう。貧困とは繰り返されるものである。貧困の家庭が貧困から抜け出すのは難しい。しかも、アーサーの家庭は親子ともに精神障害者である。アーサーは精神障害者であることを自覚していて、精神病院に入院していた過去があり、服薬中の身であることを認識している。自分の意思とは関係なく笑ってしまう発作と付き合いながら日々を生きていた。原因は脳の損傷であったが、なぜ脳に損傷ができたのかまでは知らずに生きていた。しかし、母親の不審な行動から自分の出生に疑問を持ち、精神病院へ出向き、母親のカルテを盗み出す。そこに書かれていたのは、母親は精神障害者であったこと、自分は養子であったこと、母親とその彼氏によって虐待・ネグレクトを受け、そのせいで精神障害になったこと。母親思いに生きてきたアーサーにとって受け入れがたい現実だった。

ここまで詳細な出自が明らかになるのは映画の中盤以降だが、このようなマイノリティを抱える人は社会に存在しにくい。アーサーが拒絶されるシーンは幾度となく描写された。アーサーほど、個人の力ではどうしようもない問題を抱える人はいない(と信じたい)。また、アーサーが抱える問題のほとんどはアーサー個人に起因するものではない。社会が肩代わりするべきで、アーサーにその責任を押し付けるべきではない。

さて、話を貧困に戻そう。

先ほど述べたようにアーサーは定職につけるような状態ではない。母親はアーサーの介護を受けて生活している。母親が精神障害者だったことで、アーサーは恵まれたとは言えない子供時代を送り、その影響で職に困る境遇になってしまった。

アーサーの生活は先細りしていて、希望がないのだ。貧困だけでこのありさまである。何度も言うがアーサーを取り巻く問題は貧困だけではない。解決の糸口さえ見えない問題が他にも山積みなのだ。

この映画には見る人それぞれにその人だけの見方があると思うが、アーサーを通して、普段は目に映らない社会問題に擬似的に直面していく視点もあるのではないだろうか。

 

続きはまた今度。