なぜ物語は希望を語るのか
文章が書きたい気分というのがあります。暇を持て余した物好きのお遊びということですね。このまま書いてると多方面に喧嘩を売りそうなので、控えます。お口チャックです。
閑話休題。今回は、この間鑑賞した映画について語ろうと思います。
なんの映画かというとこちら。
ついでに公式サイトでも載せておきましょうか
というわけで大々的に宣伝したので、観に行ってくださいね。良い映画でしたよ。
あ、 今回話すこと終わっちゃった。いやむしろここからが本題でしょ!
この映画の感想などというものは、グーグル先生が数多く教えてくれるので、検索検索ぅしてください。
映画を見ていない人のための3行あらすじ(ネタバレ含む)
・舞台は廃病院
・あるサイトを見た12人の死にたい子どもたちが集まる
・12人集まったが、すでに死んだ人が1番のベッドに寝ている
・みんな最後は生きたくなる。
Happy END!
3行で終わらないstyle
なんでひとり多いのかとか、なんで死にたいから生きたいに変わったのかとかは映画を見てください。馬鹿には難しいけど、馬鹿でもわかる優しさに溢れたトリックでした。
つかみの部分に原稿用紙1枚分を使い切ったところで、本題へといきましょう。
まだ本題じゃなかったの? 長くない? とか言わないでね。傷ついてしまうから。
なぜ物語は希望を語るのか
初めて見出しを使いました! 文字大きい!! ……失礼しました。正気に戻ります。
エンターテイメントの前提
映画を含むエンターテイメントというものは、ネガティヴからポジティヴに変わることを良いものであること考えている節があります。『十二人の死にたい子どもたち』では、死にたい→生きたいという変化です。死にたい気持ちから生きたい気持ちに変わることの何がどうというわけではありません。この手の作品は、最終的にそのような結末になるものだと思っています。絶望の中から希望を見出すことの苦しさを乗り越えた先に見える光は、とても輝いて見えたでしょう。この映画も、雷雨の夜と雨上がりの朝日という演出で表現していました。
人生は捨てたものではないと思うことは、大抵の人には簡単なことすぎて、この映画は新鮮に映るのかもしれません。知らんけど。
何が言いたいかというと、生きることは絶対的に良いことであり、死ぬことは絶対的に悪いことであるという前提が気に食わないということです。
映画自体は面白い
そんなこと考えないで普通に良い映画だったと言えないのかと言われると、ごめんなさいとしか言えないのですが。自分としては、なんで死ななかったことを美化できるのだろうという気持ちがあります。劇中の登場人物たちの境遇は何ひとつ変わっていなくて、生きることが辛くて死にたいと思うには十分すぎるものでした。集まった十二人がそれぞれの苦しみを知ることで自分の状況を悲観するのではなく、まっすぐ見つめ直す勇気を持ったということは素晴らしいことでしょう。感動しました。
救われないこともあるじゃないか
それでも、辛くて死ぬのはダメなのかなと思っちゃうんですよね。辛いことが辛くて、立ち向かえなくて逃げたくても逃げられないことだってあるはずなのに、そういう可能性を物語は考えていない気がするのです。だからこの映画も、結局みんな死なないだろうなと思ってどこか冷めた気持ちで眺めてしまった。物語だからこそ、辛いことが辛いまま終わったっていいと思うんですよ。救いのない物語なんて売れないだろうとは思いますが。現実で生きている以上、みんなどこか立ち向かっているのだから、物語くらいは生きることから逃げ切ってくれてもいいんじゃないのかなあということです。要するに、集団自殺を決行しても良かったのではないかといことです。とてもひねくれていますね。自覚はしています。
なぜ物語で希望を語るのか
人間そんなに強くできていないのに、見栄を張ることばかり覚えてしまって、難儀な生き物だなと思います。まっすぐな心で生きていくことが難しくなりすぎて、物語のなかに夢を見てしまうようになったのでしょうか。情報化社会になっていろんな形で自分を売り出せるようになって、逆に「自分は何者なのか」みたいな問いを突きつけられるようになってしまった。世の中の人は、生きるための軸になるものを見つけたくて、探しているところなのかな。だから前向きな気持ちで一歩目を踏み出していく物語を求められている。そういうことなんでしょうか。
自分も探しているところなんですけどねえ。めちゃくちゃ鬱になる物語が読みたいです。失恋ものとか。
そんなわけで、前向きに生きる勇気が欲しい人にはおすすめです。
どういうわけだ! 無理矢理それっぽくするな!